私の育て親である祖母が昨日、亡くなった。
山形県でのセミナーへは、祖母の病院からほとんど寝ずに向かった。
この仕事をしていたら、親の死に目に会えない。と、言うけど本当にその通りになった。
山形の皆さんはとても心温かい方々ばかりで、セミナー中に亡くなったことを知ると、そこに居た皆さんが、祖母のために追善のお題目を送ってくれました。
3人目の弟が産まれた後、母は私達にご飯も作れないくらい心身共に衰弱し、鹿児島から祖母がやって来てくれた。
家族団欒はなく、母の泣き叫ぶ姿を毎日見ながら育った私たちは、やっと朝ご飯を作って見送っとくれる普通の暮らしが出来るようになった。
ばあちゃんが弟をお風呂に入れる時、戦争の歌を歌いながらリズミカルに入れていた。(当時は、わからなかったが。)
ばあちゃんは、よく戦争中どれだけ貧しくそして、愛おしい我が子もお金がなくて病院へ行けず亡くなったことを度々話してくれた。
ばあちゃんは私がどれだけ憎たらしい事を言っても、「陽ちゃん、陽ちゃん」と、私の世話をしてくれた。
裁縫が苦手な私は、つい最近まで、娘のゼッケンを祖母に縫ってもらっていた。
自分の子供8人産み育て、私達3人育て上げ、地元では同志の皆様の前で三味線を弾いたり、お琴を弾いたり、手作りのプレゼントを作って配ったりしていた。人の喜ぶ顔を見るのが、きっと大好きなんだったと思う。
95年間の祖母の人生、苦労ばっかりさせたけど、ばあちゃんのおかげで私きっと、まっすぐ育ったんだと思う。
ばあちゃん、ほんまにありがとう。
ばあちゃんと共に生きた人生、寂しくなかったよ。一人じゃなかったよ。
これからは、ばあちゃんが私に注いでくれた深い深いの愛情を、私が家族やみんなに注いでいくね。
ばあちゃんの祈りを胸に、ばあちゃんが心から望んでいた世界平和へ向かって…。